市浦建築設計事務所は、当初は商業業務ビルや、米軍基地の計画等、種々の業務を行った。公的共同住宅設計の最初は、54年に行った建設省の公営住宅標準設計54Cである。これは塔状中層住宅(スターハウス)で、一層に3住戸をY字型に配置したもので、板状ばかりの団地に変化ある空間を形成するために考案された。54年春の所員数は8名であった。
標準設計の開発
55年の日本住宅公団設立後は、公団住宅の標準設計を行い、並行して各地の自治体の公営住宅設計を行った。以降当社の業務は急速に公共住宅の設計が中心となっていった。55年名古屋市の委託による千種台団地の計画や東京都の桐ヶ丘団地(56年)等、各地で団地計画を行い、経験を重ね、団地計画は当社の得意な分野となった。
ニュータウンの誕生
61年には、わが国初のニュータウン(以下NTと記す)である大阪府千里NTの計画に参加、豊中市域全域と、吹田市域(桃山台、竹見台)の計画を行い、67年完了した。ここでは当時例の無かった自動車時代に対応するまちづくりとして、歩行者専用道路網を都市全域に実現した。61年には兵庫県の明舞ニュータウンの計画も行い、63年完了。これらの業務を通じてNT計画技術が蓄積された。
都市再開発の萌芽
一方、高度成長期に入ったわが国は都市の骨格・機能・環境が先進諸国に大きく見劣りする状況にあった。当社は静岡呉服町防火帯計画(56年)、岡山市防火帯計画(60年)をはじめ、東京の銀座(59年、建築家協会)、青山通り(61年、日本住宅公団)、自由が丘(62年、首都圏不燃建築公社)、新宿西部(63年、東京都)等で他事務所と協同して再開発計画の検討を行った。
青山通り再開発において大通り沿いに連続する形で提案した複合型市街地高層住宅の具体的な設計にも早くから取り組んだ。メゾネット住戸による万世橋高層市街地住宅(58年、東京都)はそのはじめである。
これらの経験は、川西能勢口駅周辺再開発等、各地での再開発計画、防災都市計画、NT・団地のセンター計画等に関わる技術的基盤となった。